稽古照今
古事記の序文にある
「古いにしえを稽かんがへて風猷ふうゆうを既に頽すたれたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補おぎなはずということなし。」という言葉です。
《6月9日(日)午前》
本日は政ではなく血で受け継ぐ地域の役の会合に出席させて頂きました。
私は『長久手生まれ、長久手育ち、長久手のため真っ直ぐに』を信条に政に向かっています。
希に『だから何?長久手生まれ、育ち、代々長久手だから偉いの?8割が新住民だよ?など』と慎重なお声も頂きます。
当然のお言葉とは理解させて頂きます。
私の過ごしたこれまでの人生では新しく長久手を一生の住み家にと長久手を新天地とし本市で40年、50年住まわれている方、そのお子さんの中で育ちました。
政の面では、長久手市議会のなかでもわずか30年前の長久手を知る議会議員はほとんど居なくなりました。
長久手生まれ、長久手育ち、代々長久手の市議会議員。
天命、宿命、運命の血で受け継ぐ長久手での使命を仰せつかるなか、
ある意味逃げも隠れも許されない、
長久手生まれ、長久手育ち、代々長久手の重大な責任を背負っているという覚悟の言葉です。
また、私自身の面では、
父が他界し、地域の役割を受けるなか、
だいたいは、44歳の私が最年少であり、
世代を繋ぐ、未来へ繋ぐ、重要な団塊ジュニア世代の責任を実感し、
若輩者ながら胆力や力不足な自身の力をふりしぼり勤める場面も多々あります。
これは政治に携わる者だから、ではなく、
まち、ひと、文化、伝統、郷土のいにしえを伝えることは、
すでに親任せではなく、
私たち責任世代の勤めであり、
多くの団塊ジュニア世代、若い世代のお力の必要性を深く感じる日々です。
長久手生まれ、長久手育ち、代々長久手の者としての責任。
団塊ジュニア世代としての重要な役割。
40年前の長久手新興期に長久手を一生の住み家として移り住まわれてきた方、その子どもとして私と共に生きてきた同級生の思いを共有できる者としての位置付け。
稽古照今
古事記の序文にある
「古いにしえを稽かんがへて風猷ふうゆうを既に頽すたれたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補おぎなはずということなし。」
いわゆる
「古いにしえを稽かんがえ今に照らす」
現代の言葉にすると、
「過去の出来事や先人の教えから学び、現在の事象に照らし合わせて教訓を政に活かすこと。」
まさに今の時代に必要な言葉が古事記にはあります。






